那智の滝詳細
那智山中には、いくつかの渓流があり、その渓流には60余に達する多くの滝が架かっている。「那智滝」とは、本来は、那智山の多くの滝のうち、瀧篭修行の行場として扱われた48の滝(那智四十八滝)の総称であった。
しかし、現在、一般に那智滝として知られている滝はこれらのうち、一の滝を指している。那智山一帯は、滝に対する自然信仰の聖地であり、一の滝は現在でも飛瀧神社の御神体であって、飛瀧神社の境内に設けられた滝見台からその姿を見ることが出来る。
滝の落口の岩盤に切れ目があり三筋に分かれて流れ落ちるため三筋の滝ともいい、また那智の滝の代表するということから那智の大滝とも呼ばれる。
この滝を写した写真のキャプションとして「熊野那智大社と那智滝」などの様に題して、三重の塔と那智の滝を1枚のフレームに納めたものがある。明治期の神仏分離以前においては、その三重の塔が属する青岸渡寺と熊野那智大社は一体のものであったが、今日においては三重塔は青岸渡寺に属するため「青岸渡寺の三重塔と那智滝」と表記するのが正しい。
2004年7月1日、紀伊山地の霊場と参詣道の構成物件としてユネスコの世界文化遺産に登録された。
詳細は那智四十八滝を参照
那智原始林内には多くの滝があるが、このうち48の滝に番号と諸宗教(神道を中心に、儒教、仏教、道教、陰陽五行説など)にもとづく名が与えられていた。
これらの滝では、青岸渡寺開祖と伝えられる裸形上人をはじめとする宗教者たちのほか、花山法皇も二の滝の断崖上に庵を設けて、千日瀧篭行をしたと伝えられている。しかし、明治期の神仏分離令・修験道廃止令によって、これらの行を支えた神仏習合的な信仰が失われるとともに、明治初期からは所在や名称も不明となっていた。
だが、1991年、わずかに残された古文書を手がかりに、地元の有志・新聞社・僧職などが四十八滝探査プロジェクトを行い、再発見に成功した。また、1992年からは青岸渡寺の手によって、那智四十八滝回峰行が再興されている。
那智大社の御由緒
熊野那智大社社伝に「神武天皇が熊野灘から那智の海岸”にしきうら”に御上陸されたとき、那智の山に光が輝くのをみて、この大滝を探り当てられ、神としておまつりになって、その御守護のもとに、八咫烏の導きによって無事大和にお入りになった」と記録されております。
千古の老木におおわれた原生林のあいだに光り輝く「那智の大滝」の神秘性は今も昔もかわることのない姿だと思いますが、その御姿を神としてあがめられたお気持ちは、現代に生きるわれわれにもまた通じるのでありまして、俳人・高浜虚子は「神にませば まことうるわし 那智の滝」と詠んでいます。
命の根源である水が豊富にあふれ落ちる「那智の大滝」を、この地方に住む原住民の人々も神武天皇御東征以前からすでに神として敬っていたとも伝えられていますが、いずれにいたしましても古代からこの大滝を「神」としてあがめ、そこに、国づくりの神である「大己貴命(おおなむちのみこと) ・大国主(おおくにぬし)をまつり、また、親神様である「夫須美神(ふすみのかみ)・伊邪那美尊(いざなみのみこと)」をおまつりしていたのであります。
現在は、大滝前の小さな広場に自然石が置かれその上に金の幣を立てた祭壇が設けられていますが、ここがかつてお滝拝所のあった所であります。(参考 那智詣 発行 那智大社)
やがて仏教が伝来し、役小角(えんのおずぬ)を始祖とする修験道がおこり、古来の神々と仏とを合わせてまつる、いわゆる神仏習合の信仰が行われるようになりました。そして大滝の御神体である「大己貴命」の化身として「千手観音」をおまつりしたことから、お滝を「飛瀧権現(ひろうごんげん)」と呼ぶようになり、権現信仰の霊場として次第に名が高まり、全国から訪れる人が多くなってきたのです。「お滝拝所」と並んで「飛瀧権現本地堂」(千手観音堂)も設けられました。
このようにしてみてまいりますと、「熊野那智大社」の根源は「那智大滝」を神としてあがめたことにあるのですが、その社殿を、大滝からほど近く、しかも見晴らしの良い現在の社地にお移しになったのは仁徳天皇五年(317年)と伝えられています。この時、大滝を「別宮飛瀧大神」とし、新しい社殿には「夫須美大神」を中心に国づくりにご縁の深い神々をおまつりしました。
また、新宮に「速玉神」(伊邪那岐命いざなぎのみこと)、本宮に「家都御子神けつみこのかみ」(素盞鳴尊(すさのおのみこと)がまつられるようになって那智大社を含めて「熊野三山」と称するようになりました。 そして、権現信仰の風潮が高まると共に「熊野三所権現」と称せられ、ついには「蟻の熊野詣」といわれる程に全国から沢山の人々が熊野を目指すことになるのですが、中でも、皇室の尊崇厚く、延喜七年(九百七年)十月、宇多上皇の御幸をはじめとして、後白河上皇は三十四回、後鳥羽上皇は三十一回もご参詣の旅を重ねられ、また、花山法皇は一千日(三年間)の滝籠りをなされたと記録されております。
その後、明治維新となって「神仏分離令」がだされ、それまでの「熊野那智権現」は「熊野那智神社(後の熊野那智大社)」となり、それに伴って大滝を「別宮飛瀧神社」と称するようになったのであります。
なお「熊野」という地名は「隈の処」という語源から発しているといわれていますが、だとすれば、ここは、奥深い処ということになります。また「クマ」は「カミ」と同じ語で、「神の野」に通じる地名ということにもなります。
その「神の里」に詣で、漂う霊気にひたり、神々の恵みを得ようとして、古代から多くの人が熊野へ、那智山へと旅を重ねているのであります。(参考 那智詣 発行 那智大社)
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