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『中右記』10月25日の条には、「石上の多介(いしがみのたわ)」の王子に参拝したとの記述がある。この時、近くに地方から熊野詣に参る途中の盲者がうずくまっており、宗忠は食料を与えたと述べている。
王子の名は『愚記』には「イハ神」、『建保御幸記』の参詣記には「石神」とあり、岩神の表記が定着するのは江戸時代以降のことである。江戸時代中期、享保・元文年間の頃までは茅葺の小祠が祀られていたが、寛政の頃には破損して扉も無く、囲い板も失われていた。『続風土記』が編纂された江戸時代後期には、社も印も無い旧址と化しているにもかかわらず、毎年祭日になると神酒が供えられていたと述べられている。
明治期になってからの合祀廃絶も早く、1877年(明治10年)に湯川王子(次述)に合祀されたことに加え、峠道が廃道になったことから長らく所在地が不明になっていた。しかし、1965年(昭和40年)に道湯川林道が開かれて、近辺の山林へのアクセスが容易になったことで、峠越えの旧道が確認され、次いで1960年代末頃から西律の調査[西
1987:39-44]や中辺路町の関係者の努力により王子の位置が明らかにされたものである。
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