熊野古道”三栖王子”詳細

万呂王子三栖王子八上王子
万呂王子跡から約1.5キロ

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三栖王子

下三栖字岩屋谷の古道沿いにありましたが明治元年、近くの八坂神社に合祀され、明治4年に八坂神社が一倉明神(現・珠簾神社)に合祀されてそこに移っています。

谷川に影を映した神

三栖王子について、定家は「次にミス山王子」としていますが、近世ではほとんど「影身王子」としています。この名前の由来は「土人いふ、古御神社辺の谷川に影を映したまいて此社に鎮座す。故に影身といふとぞ」(紀伊続風土記)

無実の罪を救った地蔵

紀南郷導記(1661〜72)にこの在所の地蔵縁起が紹介されています。「海道より十八間ばかり南に、五郎地蔵という石仏の堂あり。近頃、五郎という土民、薪柴を刈らんとて山に行くに、常にこの道を往復する度毎に時の草木花を手折りてかの地蔵に奉ること懈怠なし。ある時、五郎戯れに、この地蔵に堂もなく雨露に侵されたまふ、さぞ本意なくおはしますらんとて、かりそめに柴をもって仏の頭に蓋いて行き過ぎぬ。かの五郎ほどなく罪を犯して牢舎す。すでに斬られるべきに決まりしところ、地蔵枕上に立ちたまい、汝が命助くべし心安く思うべし、と示したまうことたびたびに及ぶ。五郎は夢現ともなく返答すること繁し。番人怪しみて故を問う。しかじかと答ふ。このこと主人聞きて不思議の思いをなしすなわち命を助けしとかや。その後、人々奇異のことに思ひ、一宇を造立せりという。」
 今に残る話では、無実の罪で五郎が打ち首と決まり、役人が刀を振り下ろすが、首は石の様に固く、三本の刀が折れてしまった。地蔵が正直者で信仰深い五郎の身代わりになったからであるとされ五郎地蔵は、その後剣難よけの地蔵とされ信仰を集めてきました。

三栖王子へのアクセス


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江戸時代中期に再建されるも又荒廃した

万呂王子跡からまた東へ、次の二股道を左へ進む。途中の三叉路を左に行けば「三栖廃寺」の塔跡があります。(三栖廃寺は法隆寺様式の伽藍配置と推定される古代寺院跡です。)廃寺に曲がらず真直ぐ行くと、十字路を過ぎて次の三叉路を右折し、橋を渡ると「報恩時(善光寺)」があり、川に沿って左に行くと三叉路の所が 「三栖王子跡」です。万呂王子跡から約1.5キロです。(下三栖1、444番地の2)ただし此処はみかん畑で、遺物と「三栖山王子社跡」の石碑は、山を登った山上にあります。

万呂王子を発ち、左会津川を東に渡ったところにあるのが、三栖王子(みすおうじ、またはミスズ王子〈みすずおうじ〉、三栖山王子〈みすやまおうじ〉とも)の旧蹟である。

『中右記』には見られず、「熊野道之間愚記」建仁元年(1201年)10月13日条に「ミス山王子」とあるのが史料上の初出で、近世には、元禄7年(1694年)付の古文書「田辺領寺社改帳」によれば影見王子(影見王寺)の名で祀られたとある。しかし、熊野古道紀伊路の道筋が潮見峠越えに変化したことにより、メインルートから外れた三栖王子は荒廃したものと見られ、氏神でもないため幕末頃までには荒廃した。村の旧蔵文書によると、寛政4年(1792年)に大工工役三百工をもって再建したとも伝えられるが、紀州藩士児玉荘左衛門が藩命により寛文3年(1663年)から翌々年にかけて領内各地の名所旧蹟を探訪したのを機に再建されたものと、同じ事情によるものであったと見られる。

慶応4年(1868年)5月の水害で社地が崩壊したため、近隣の八坂神社境内に遷祀され、さらに1909年(明治42年)に八坂神社が上三栖の珠簾神社(みすじんじゃ)に合祀され、以後、同神社の境内摂社である。旧社地はミカン畑になっており、遺物と三栖山王子社跡碑は丘の上にある。これらの遺物や碑は、近在の報恩寺の住職が散逸を危惧し、保存に努めたものである。田辺市指定史跡(1988年〈昭和63年〉3月5日指定)。

  • 所在地 田辺市下三栖444-2
出立王子(イデタチ)

秋津王子(アキツ)

万呂王子 三栖王子(ミス) 八上王子(ヤカミ)
稲葉根王子(イナバネ) 一の瀬王子(イチノセ) 鮎川王子(アイカ) 滝尻王子(タキシリ) 大門王子(ダイモン)
十丈王子(ジュウジョウ) 大坂本王子(オオサカモトオウジ) 近露王子(チカツユ) 比曽原(ヒソハラ) 継桜王子(ツギサクラ)
中川王子(ナカガワ) 小広王子(コビロ) 岩神王子(イワガミ) 湯川王子(ユカワ) 猪鼻王子(イノハナ)
発心門王子(ホッシンモン) 水呑王子(ミズノミ) 伏拝王子(フシオガミ) 祓戸王子(ハライド) 湯の峰王子(ユノミネ)