熊野古道・滝尻王子詳細

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滝尻王子

滝尻王子は藤原秀衝建立であるとされています。根拠は熊野巡覧記では「これは奥州の秀衝建立の地なり。小社数多あり。秀衝夫婦熊野へ参詣せし時、秀衝の室、この所にて平産ありしかば、喜びのあまり藤原代々の宝剱をこの社に奉納せし故、剱宮とも云うとなり。」とされています

熊野山の入り口

 滝尻王子からはいよいよ聖域に入るとされています。平安朝の歌人増基法師の「いぬほし」があります。それには、「世をのがれて、心のままにあらん」」と単身熊野詣の旅に出た。むろの港(田辺湾)に上陸、一夜を木の許で明かして出立。いよいよ滝尻にやって来た。
    御山に付くほどに、木のもとごとに手向けの神おほかれば、水のみにとまる夜、
    万世の神てふ神に手向しつ思いと思うことなりなむ、
この紀行文では道中の王子社の事とかにはふれておらず、岩田川のみそぎも書いてはいませんが「御山とあるのは滝尻が熊野古道の聖域の入口だと言うことが伺えます。そしてその裏の剣山には八百万の神々がお祭りされている様子が伺えます。

滝尻王子(たきじりおうじ)は和歌山県田辺市にある神社。滝尻王子宮十郷神社〈たきじりおうじみやとごうじんじゃ〉とも称される。九十九王子の一社で、五体王子のひとつに数えられ(『熊野権現蔵王宝殿造功日記』)、『熊野縁起』(正中元年〈1326年〉、仁和寺蔵)によれば本地は不空羂索菩薩。

国指定史跡「熊野参詣道」(2000年〈平成12年〉11月2日指定)の一部である。

滝尻の地名は早くは『為房卿記』永保元年(1081年)10月2日条に見られ、『中右記』天仁2年(1109年)10月2日条には王子が既に成立していたことを示す記述がある。滝尻王子は熊野の神域への入り口として古くから重んじられ、『中右記』には「初めて御山の内に入る」との添書きがあるだけでなく、『源平盛衰記』にも同じ趣旨の記述を見出すことができる。中世熊野詣の頃には宿所があったともいわれ、藤原定家の「熊野道之間愚記」(『明月記』所収)建仁元年(1201年)10月13日条や藤原経光の参詣記(『民経記』所収、寛喜元年〈1229年〉)にそれを示唆する記述があるが、詳細は定かではない。

滝尻王子は、岩田川(富田川)と石船川(いしぶりがわ)の合流する地点に位置し、「滝尻」の名も、2つの急流がぶつかりあって滝のように音高く流れたことに由来すると伝えられる。古来の参詣道を精確に推定することは困難だが、参詣者が初めて岩田川に出会う稲葉根王子から滝尻王子まで、参詣者は何度となく、岩田川を徒渉しなければならず、一種の難所であった。「熊野道之間愚記」建仁元年(1201年)10月13日条で、この間の道中について、幾度も川を渡り山を越さなければならないと述べると同時に、紅葉が川面に映るさまを見事であると称えている。

滝尻王子に至った参詣者たちは、奉幣を行い、王子の目の前の流れに身を浸して垢離の儀礼を行った。滝尻王子における垢離について、鎌倉時代初期以降成立の『諸山縁起』には興味深い記述が見られ、

右の川は観音を念ずる水、左の川は病を除く薬の水

とし、さらに前出の『熊野縁起』では、

滝尻両方河ニ橋ヨリ上ニハ千手浄土御坐。又丑寅ヨリ流タル河ニハ薬師浄土御坐ス。彼水ハ偏其浄刹ヨリ落智水ナリ。是以テ無始無終罪滅ス。

と述べて、観音菩薩の補陀落浄土から流れてくる岩田川の水と、薬師如来の浄瑠璃浄土から落ちてくる石船川の水で沐浴することで罪が滅される、と滝尻でとる垢離の意義が説かれている。

芸事奉納

中世熊野詣においては、しばしば里神楽や経供養といった芸事奉納が通例のこととして行われていたことが、『吉記』承安4年(1174年)9月30日条や「熊野道之間愚記」、『熊野詣日記』応永34年(1437年)9月26日条に見られる。

また、ときには後鳥羽院の参詣の際の様に歌会が開かれることもあった(「熊野道之間愚記」)。その歌会の参加者が自らの詠んだ歌を書き付けた懐紙を熊野懐紙(くまのかいし)といい、そのうち約30通が現存する。熊野詣の途上で催された歌会の様子を伝える熊野懐紙のうち9通は、正治2年(1200年)12月6日の滝尻王子での歌会のものである。熊野懐紙は、当時の歌人に珍重され、都で高値で売買されて、後鳥羽院政の収入にもなった。

盛衰

路次の王子、皆もって破壊転倒し、実なし、もっとも以って歎かるべき事なり、法皇の行宮ことごとく壊れ取られ地あり、滝尻並びに御山は残れり、後白河院の御時の御所は、その後修理云々、当時虎狼の栖の如し

とあり、荒廃が著しい様子を伝えている。その中で、滝尻王子は、破壊転倒こそ免れているものの、目に余る荒廃の様相を呈していた。

その後、室町時代頃までには、岩田川を何度も渡渉しなければならない難路であることが嫌われて、参詣道が潮見峠越えに移行し、滝尻王子を経由しなくなったため、滝尻王子は近隣の住人のための叢社の地位に戻ったと考えられている。近世の記録を見ると、『田辺領神社書上帳』(寛政4年〈1792年〉)によれば建前1間四方・境内40間四方、その堂舎は藤原秀衡の寄進によるものとされることから「秀衡堂(ひでひらどう)」と呼ばれたという。その由緒譚によれば、そのむかし藤原秀衡夫妻が熊野詣の途上で産気付き、滝尻王子裏手の窟で三男和泉三郎を出産した。秀衡夫妻は熊野権現に立願して子を窟に残し、熊野詣を遂げて帰ってきたところ、その子は孤狼に守られ、岩から滴り落ちる乳を飲んで育っていた。秀衡夫妻はこれを喜び、報恩として七堂伽藍を寄進したが、承久の乱の兵火で焼失したという(『紀伊国名所図会』)。なお、現在も秀衡の子が乳を飲んだという岩が「乳岩」として残り、そのそばには「胎内くぐり」という岩穴もあって、それをくぐる女性は安産に恵まれるという。

明治期には、村社に列すとともに栗栖川村内の10の集落の神社を合祀したことから十郷神社(とごうじんじゃ)と称され、社殿の改築も行われた。しかし1946年(昭和21年)各集落が御神体を持ち帰ったために、旧状に復すとともに、滝尻王子宮十郷神社と呼ばれるようになった。